
沿革・校章・校歌
沿革
昭和37年 1月 | 福井県立敦賀工業高等学校として現在地に創設 |
昭和37年 4月 | 開校,機械科ならびに電気科設置(各2クラス) |
昭和38年 4月 | 工業化学科設置(2クラス) |
昭和39年 4月 | 建築科設置(1クラス) |
昭和40年 3月 | 機械科・電気科第1回生卒業 |
昭和41年 3月 | 工業化学科第1回生卒業 |
昭和41年11月 | 敦賀工業高等学校竣工式典挙行 |
昭和42年 1月 | 生徒寄宿舎竣工 |
昭和42年 3月 | 建築科第1回生卒業 |
昭和42年 7月 | 水泳プール竣工 |
昭和44年 4月 | 工業化学科1クラスになる |
昭和45年 3月 | 流体機械実習室増築 |
昭和47年 3月 | 物理化学実習室増築 |
昭和49年 3月 | 電力・電気工事実習室増築 |
昭和53年 3月 | 機械科実習工場増築 |
昭和56年12月 | 「二十年史」の発刊 |
昭和57年11月 | 普通教棟改築 |
昭和59年10月 | 特別教棟改築 |
昭和61年 4月 | 第2体育館完成 |
昭和61年 6月 | 中庭(メモリアルガーデン)完成 |
昭和63年10月 | 弓道場完成 |
平成 2年 3月 | 武道場改築移転 |
平成 3年 4月 | 機械科1クラスになる |
平成 4年 3月 | 第1体育館リフレッシュ工事,グラウンド改修 |
平成 6年 3月 | 本館リフレッシュ工事,部室新築 |
平成 6年 4月 | 制服をブレザーの形に一新 |
平成 7年 4月 | 学科再編(機械科を電子機械科とする,電気科を1クラスとする,工業化学科を情報ケミカル科とする,建築科を建築システム科とする) |
平成 8年 3月 | 情報ケミカル科教棟リフレッシュ工事 |
平成 9年 3月 | 建築システム科教棟リフレッシュ工事,水泳プール改修移転 |
平成10年 3月 | 青桐寮閉寮 |
平成11年 9月 | 県道津内櫛林線建設により西側入口改修 |
平成13年 9月 | 「四十年史」の発刊 |
平成15年 3月 | 校訓「活力・自律・進化」を定める |
平成23年 4月 | 学校設定科目「原子力・エネルギー安全工学」を開講 |
平成23年10月 | 創立五十周年記念事業で記念モニュメントと懸垂幕昇降装置を設置 |
平成25年 4月 | 新1年生より制服ブレザー・ポロシャツのデザイン変更 |
平成25年10月 | 電子機械科工場・情報ケミカル科工場・建築システム科工場リフレッシュ工事 |
令和 3年10月 | 創立六十周年記念事業で時計・照明を設置、モニュメント増設 |
令和 4年 3月 | 「六十年史」の発刊 |
校章

元敦賀高等学校教諭 山品 寛
昭和37年、福井県立敦賀工業高等学校の新設にあたって、その準備は敦賀高等学校で行われました。当校の美術教師であった私は、校章をデザインするという記念すべき光栄なチャンスに恵まれ、二十年経った今日その思い出を新たにする喜びは隠し切れないものがあります。
この種のデザインは、一般に簡単明瞭であることとその反面深い意味をも要求されます。また、一度作ったものは、恒久性をもち改変は容易ではないといった性格のもので慎重でした。
意味としましては、敦賀の古い地名「角鹿(つのが)」から鹿の角の形を、また工業の「工」の字を二つの三角形で、近代的・幾何学的に表現し「高」の字をのせました。
古い文化と新しい文化の結合発展を念願したものです。
敦賀工業高等学校の栄あるシンボルマークとして、永く生き続けることを祈ってやみません。
「『四十年史』 第一編 沿革史」より抜粋
校歌
1、野坂の嶺に虹かかる
生気におどる心の飛沫(しぶき)
七色の希望 学舎に溢る
われらが母校
敦賀 敦賀工業高校
理想は高く
歌 ここに充つ
2、黒河デルタに 鳥歌い
技術を磨き 勤労讃え
若きエネルギーは校旗に集う
われらが母校
敦賀 敦賀工業高校
新生拓く
気宇 ここに充つ
3、衣掛山(きぬかけ)に花紅く
かがやく歴史 敦賀の港
航路は遙か 世界に進む
われらが母校
敦賀 敦賀工業高校
大志は胸に
幸(さち) ここに充つ
