ダイヤモンド
敦賀工業高等学校 安田 秀平
僕は今年、約十年間続けた野球生活の中で最高の瞬間をつかんだ。それは七月二十五日夏の高校野球福井大会準決勝、対春江工業高校との試合でのこと。
僕の所属する敦賀工業高校は、一回戦、二回戦、三回戦と勝ち進み、準決勝で春江工業高校と対戦した。僕の最初の打席はアウトコースのチェンジアップを空振り三振。第二打席はインコースのスライダーをセカンドゴロ。第三打席には甘く入ったスライダーをセンター前にヒットを放った。予想通りの投手戦となった準決勝は、ゼロ対ゼロで最終回を迎えた。後攻の僕らのチームは、九回表を守り切り、迎えた九回裏、先頭打者に、僕の打席が回ってきた。何が何でも打ちたかった。狙った初球はインコースに甘く入ったカーブ。思いっきり打ったボールは、ライト線を抜けた。力一杯走った。一塁ベースを蹴り、二塁へ向かった。三塁側にいたランナーコーチが目一杯手を回している。僕は、二塁ベースも蹴り、三塁ベースへすべり込んだ。スリーベースヒットだ。球場に大歓声が響いた。一塁側の僕らのベンチと、アルプススタンドが揺れた様に見えた。僕は右手を高らかに上げ、ガッツポーズをした。この時のガッツポーズを僕は、一生忘れないと思う。残念ながら、甲子園の夢はこの試合で途絶えた。県大会ベスト4、これが僕らのチームの最後の結果となった。
思えば、この試合の数週間前に最後の試合を経験したメンバー達の姿があった。
敦賀工業高校野球部三年生、在籍二十八名。みんなが同じつらい練習に耐えてきた。同じチームの仲間だ。だけど、無情にも、全員がベンチに入ることは出来ない。背番号は十八までしかない。そんな三年生二十八名全員に、監督はチャンスを与えて下さった。七月十三日の県大会開幕を前に、強豪・敦賀気比高校との引退試合が用意された。両校のレギュラーは、今回はスタンドからの応援だ。
試合は、敦賀気比が優勢。一点を返すも六点差。迎えた最終回。最後の攻撃。一アウトになった時、スタンドで応援していた僕達は、動き出した。対戦相手の気比高ナインと、バックネット裏で一列につながり、肩を組んだ。歌う応援歌は、ゆずの名曲、「栄光の架橋」。大合唱は、敵、味方を越え、一つになった。
「誰にも見せない涙があった。人知れず、流した涙があった。くやしくて眠れなかった夜があった—————」
僕らの挑んできた日々が浮かんだ。ひたむきに打ち込んだ仲間の顔が浮かんだ。僕は、最高の仲間に恵まれていたんだ。
僕が、野球を始めたきっかけは、二つ年上の兄の影響だ。小学校二年生から地区のスポーツ少年団に入り、野球を始めた兄の練習試合の応援や合宿に、僕も幼稚園の頃から加わっていた。兄と同じ小学二年から正式にチームに入団した。
二つ年上の兄は、内野の守備がうまく、キャプテンをしていた。そんな兄が誇らしくもあり、少し近寄りがたい存在でもあった。今、兄は就職して、茨城県で働いている。その兄が、僕の最後の試合の応援に駆けつけてくれた。片道六百キロを運転して帰ってきてくれた。素直に嬉しかった。
考えてみたら、僕は家族に応援してもらいながら野球を続ける事が出来たんだ。
僕の父も野球が大好きだ。よく兄と三人で野球の話で盛り上がった。その父は、ほとんど全試合と言っていい程、僕の全ての練習試合と公式戦の応援に来てくれた。そして僕以上にその時の試合内容を事細かく覚えていて、何かの時にアドバイスをくれたりした。
僕は野球を通じ、たくさんの事を学び、たくさんの仲間達と感動を分かち合ってきた。野球をやってきて本当によかったと思う。野球を通じて深めてきた友情、仲間は、僕の一生の宝物になると思う。今年のあの夏のガッツポーズと共に、一生忘れないだろう。
最後の試合の後、母からもらったメールにはこんなことが書いてあった。
「感動をありがとう。秀平が、この素晴らしいチームの一員であること、母は誇りに思います。夢のような夏を本当にありがとう。」
僕の野球人生は、傷ついては光を増す、キラキラしたものだった。